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Brookeo Wyatt Patrick

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白石家から結婚指輪を外せと言われた日、白石浩は会議テーブルのいちばん奥に座り、冷ややかに言った。 「彼女に白石家の指輪をつける資格はない」 私は自分の指を見下ろし、三秒ほど黙ってから手を上げた。 「ひとつ確認したいことがあります。私、一度もその指輪をつけたことがありません」 部屋にいた人たちの顔色が変わった。 白石夫人が眉をひそめる。 「はるさん、何を言っているの。結婚式の日、浩が自分であなたに着けたでしょう」 私は白石浩を見た。 白石浩も私を見ていた。 普段から表情の乏しい人だけれど、このときばかりは、その顔が少しずつこわばっていった。 結婚式の日、彼は酔っていたから。 あの指輪は、その後、幼いころから一緒に育った神崎詩織のInstagramに出ていたから。 そしてこの二年間、私がつけていたのは、商店街で自分で買ったただのシンプルなリングだった。三千円もしないもの。 …… 応接室は、妙に静まり返っていた。 白石家の本宅にある長いテーブルは、ふだん一族の会議に使われているものだ。磨き上げられた天板の上には茶菓子と数部の書類、それから黒いベルベットの指輪ケースが置かれていた。 さっき、白石夫人はそのケースを私の前へ押しやった。 そして言ったのだ。 「石川さん、これ以上場を悪くしないで。指輪を外して、白石家に置いていきなさい」 今日ここに呼び戻されたのは、周年晩餐会の招待客リストのためだと思っていた。 でも部屋に入って初めて、神崎詩織もいることに気づいた。 彼女は白石夫人の隣に座り、淡いベージュのワンピースを着て、髪をゆるくまとめていた。手元には周年晩餐会の招待状が置かれている。何も言わず、私が目を向けると、そっと視線を伏せただけだった。 その顔は、何度も見てきた。 二年前の結婚式でも、彼女はこんなふうに白石浩のそばに立ち、酔った彼の袖口を整えていた。 あのとき、誰かが笑いながら言った。 「詩織さんのほうが、今日の花嫁みたいですね」 会場中が笑った。 私は少し離れたところで花を抱えたまま立っていた。そのとき白石浩の秘書が小声で言った。 「奥様、社長がかなり酔っておられますので、指輪交換は少し急ぐことになるかもしれません」 その後は本当にあっという間だった。 私が状況を飲み込む前に、司会者はすでに式の成立を告げていた。 翌朝、目が覚めたときには、手元に何もなく、部屋には枯れかけたバラの花束だけが残っていたほどに。 私は家のスタッフに、指輪はどこにあるのか尋ねた。 するとスタッフは言った。 「社長がお持ちになっているかと存じます。社長にお尋ねください」 聞かなかった。 そのころの私は、白石家に入ったばかりだった。白石浩は私によそよそしく、白石家の人たちも表向きは丁寧だったけれど、距離はずっとあった。そこで私から指輪のことを口にすれば、いかにもそれを気にしていて、白石夫人という立場にも執着しているように見えるだけだった。 だから私は商店街へ行って、自分でリングを買った。 二千九百八十円。 迷っている私を見て、店主は小さなベルベットの袋までつけてくれた。 「とりあえずでも、つけていれば十分きれいですよ」 私はそれを二年間、つけ続けた。 けれど白石家の人たちはずっと、それを白石浩からもらった結婚指輪だと思い込んでいた。 今日になって、外せと言われて初めて、私の手には何もないと気づいたのだ。 白石浩は私の手をじっと見つめていた。目つきは重く沈んでいる。 白石夫人の顔色も悪くなり、声が冷たくなった。 「はるさん、ここでとぼけないでちょうだい。あの日はあれだけの招待客が見ていたのよ。浩があなたに指輪を着けなかったなんて、あるはずないでしょう」 「私も知りたいです」 私は手をテーブルに戻し、黒い指輪ケースにそっと触れた。 「ですから、お義母さまが今日この空のケースを出されたのは、私に何を返せということなんでしょう」 白石夫人の手がぴたりと止まった。 隣にいた叔母のひとりが、先にふっと笑った。 「若い夫婦がちょっとした行き違いをしたくらいで、結婚指輪まで持ち出すなんて。はるさん、浩は普段とても忙しいのよ。不満があるなら二人の間で話しなさい。年長者の前でこんなふうにしてはいけないわ」 「行き違いではありません」 私はバッグを開け、さっき外したばかりのリングを取り出してテーブルに置いた。 銀色の細い輪。長くつけていたせいで、縁はすっかり擦れていた。 「これが、この二年間ずっと私がつけていた指輪です」 神崎詩織が一度だけ目を上げ、すぐにまた伏せた。 白石浩は動かなかった。 濃い色のスーツを着て、背筋を伸ばして座っている。けれどその手はすでにカップの縁に置かれ、指の関節が白くなっていた。 白石夫人はその安っぽいリングを見つめ、もう平静を保てなくなっていた。 「どういうつもり? そんなものを着けて白石家の宴席に出ていたの?」 「はい」 私はうなずいた。 「一昨年のチャリティー晩餐会も、去年の祖父の賀寿の席も、今年の初めの詩織さんの帰国歓迎会も、全部これでした」 そこで少し間を置く。 「誰も気づきませんでしたけど」 そう言った瞬間、長テーブルの両側に座る人たちの空気がぎこちなくなった。 白石家は、世間からどう見えるかを何より重んじる。 白石夫人が安物の指輪を着けて何度も公の場に出ていたのに、誰ひとり気づかなかった。それはつまり、ひとつのことしか意味しない。 この人たちは、一度も本気で私を見ていなかった。 私がそこに座って、失敗さえしなければ、それでよかったのだ。 ようやく白石浩が口を開いた。 「はる」 低い声だった。 「どうしてこのことを俺に言わなかった?」 私は彼を見た。 軽い言い方だった。本当にただ、なぜなのかわからないというように。 でもそれを聞いた瞬間、笑いたくなった。 「白石社長、私は結婚式の翌日にLINEをしました」 白石浩が眉を寄せる。 私はスマホを開き、二年前のやり取りを探し出して彼の前に押しやった。 その日の朝、七時四十二分。 私は送っていた。 『指輪はあなたのところにありますか?』 五時間後、返ってきたのは二文字だけ。 『忙しい』 その後に続いたのは、銀行振込のスクリーンショット。 百万円。 備考欄には『婚後費用』とある。 白石浩はその記録を見て、顔色を沈ませた。 先ほどの叔母が軽く咳払いをした。 「浩はあのころ海外案件を引き継いだばかりだったの。忙しいのも当然でしょう。はるさん、それだけで浩が指輪を渡さなかったなんて言うのは――」 白石夫人がすぐに言葉を継いだ。 「そうよ。あなたが自分でなくしただけかもしれないじゃない。今、詩織が帰ってきたから面白くないのね。それでこんなことで浩に恥をかかせるつもり?」 神崎詩織は、その言葉に驚いたように慌てて手を振った。 「お義母さま、そんなふうに言わないでください。はるさんは、本当に誤解しているだけかもしれません」 彼女の声は柔らかい。 「私は今日、周年晩餐会の進行を見るお手伝いに来ただけです。浩さんとはるさんの間のことに、私が口を挟むべきではありません」 そう言い終えるころには、もう目が赤くなっていた。 白石家の人たちの目つきが、たちまち和らぐ。 白石夫人は彼女の手の甲を軽く叩いた。 「あなたは本当に聞き分けがいいわね」 白石浩の視線がスマホから離れ、神崎詩織の顔に落ちた。 神崎詩織は目を上げ、小さく呼んだ。 「浩さん」 私はスマホを引き戻した。 「白石家が、私にこの指輪をつける資格がないとお考えなら、ちょうどいいので今日ここではっきりさせましょう」 バッグから、折りたたんだ紙を一枚取り出す。 「これは私がまとめた搬出リストです。新居にある白石家のものは、一つも持ち出しません。私のものは、今夜中に引き取らせていただきます」 白石浩が目を上げた。 テーブルの上で、彼のカップが小さく鳴る。 「誰が出ていけと言った」 「お義母さまです」 私は白石夫人を見た。 「今朝、執事を通して、今夜までに私たちの部屋を空けるようにと伝えられました。周年晩餐会の前に整え直すそうです」 白石浩の視線がそちらへ向く。 白石夫人の表情がわずかに変わった。 「私は掃除をさせるよう言っただけよ。どうしてそれを、出ていけという意味に取るの」 「ドレッシングルームはもう片づけられていました。私のドレッサーのものも箱に詰められて、ベッドサイドに置いてあった薬まで客間に移されていました」 私は一枚の写真をテーブルに置いた。 写真の中では、私のスーツケースがすでに廊下へ出されている。 「お義母さま、掃除のために、結婚写真を床に伏せたりはしません」 白石浩はその写真を手に取った。 その瞬間、彼の手が止まる。 写っているウェディングフォトは、私と彼の唯一の正式なツーショットだった。 白石浩は背筋を伸ばして立ち、笑っていない。 私はその隣で白いバラを抱えている。撮影の日、彼は会社から駆けつけて二十分しかいなかった。カメラマンにもう少し寄るよう言われると、彼はわずかに眉をひそめた。 あのときの私は、結婚してから少しずつでも良くなっていくものだと思っていた。 だからその写真を、ずっとベッドサイドに飾っていた。 二年間ずっと。 白石浩は写真を見つめ、喉仏を上下させた。 「誰がやった」 誰も答えない。 神崎詩織が小さな声で言う。 「スタッフの方がうっかりしただけかもしれません」 私は笑った。 「詩織さんはこの家のことをよくご存じなんですね。スタッフがどう考えるかまでわかるなんて」 神崎詩織の顔がさっと白くなる。 白石夫人がすぐに眉を寄せた。 「はるさん、そういう言い方はやめなさい。詩織は今日は手伝いに来ているだけよ」 「手伝いで、私たちの部屋にまで入るんですか?」 私はテーブルの上にあった周年晩餐会の進行表を手に取った。 主賓席の席次には、白石浩の隣に神崎詩織の名前がある。 その代わり、私の名前は親族席の三卓目に移されていた。 私はそれを白石浩の前へ押しやった。 「社長、これも誤解ですか?」 白石浩はその紙を見た瞬間、顔つきが完全に冷え切った。 片手で紙を押さえる。指先はちょうど、神崎詩織の名前の上にあった。 ついに白石夫人も座っていられなくなった。 「周年晩餐会は白石家の名誉に関わるの。詩織は段取りをよく知っているから、近くにいたほうが動きやすいのよ。あなたは最近少し様子がよくないし、年長者たちも場を安定させたいだけで――」 私はうなずいた。 「よく考えられたご配慮ですね」 立ち上がり、自分のバッグを手に取る。 「白石夫人の席は、代わりに見てくれる人がいるようですし、私は失礼します」 ほとんど同時に、白石浩も立ち上がった。 椅子の脚が床を擦り、耳障りな音が響く。 テーブルの全員が彼を見た。 けれど白石浩は誰にも構わず、ただ私だけを見据えた。 「はる、ちゃんと話してから行け」 「まだ足りませんか?」 私は彼を見た。声は高くない。 「指輪は私の手に届いていない。部屋は片づけられた。周年晩餐会の席も替えられた。白石浩、今日白石家に欠けているのは、指輪ひとつじゃありません」 彼の目が沈んだ。 私はそれ以上、何も言わなかった。 こういう言葉は、口にした瞬間、乞うことになる。 もう誰かが私の代わりを務めている結婚を、私は乞いたくなかった。 背を向けようとした、そのときだった。 神崎詩織のスマホの画面が、ふいに明るく光った。 彼女は慌てて消した。 でも白石浩は、もう見ていた。 表示されていたのは、昔の写真を振り返る通知。 写真の中で神崎詩織は、結婚式の舞台裏に立ち、シャンパンゴールドのブライズメイドドレスを着て、楽しそうに笑っていた。 左手を掲げている。 薬指にある雫型のダイヤの指輪が、照明の下できらりと光っていた。 添えられている言葉は一文だけ。 「贈り物って、ちょうどいいタイミングで来ることもある」 日付は、私と白石浩が結婚したその日だった。 白石浩の顔から、ゆっくりと血の気が引いていった。その写真が映った瞬間、部屋の空気が変わった。 いちばん早く反応したのは神崎詩織だった。 慌ててスマホを伏せ、声まで震わせる。 「システムが勝手に出してきた昔の写真です。もう忘れかけていました」 誰も返事をしない。 白石夫人は彼女の手を見つめ、何度も表情を変えた。 まわりの人たちは見たくて仕方がないのに、あからさまにはできず、茶を飲むふりをしている。 白石浩は長テーブルの向こうに立ったまま、神崎詩織が押さえているスマホを見ていた。 「開け」 神崎詩織は唇を噛んだ。 「浩さん、本当にただの昔の写真なんです。あの日は浩さんも酔っていて、みんな冗談半分で……私も深く考えていませんでした」 「開け」 二度目に言った白石浩の声は、さっきよりさらに低かった。 神崎詩織の目がたちまち赤くなる。 ひどく傷ついたような顔で、ゆっくりスマホを裏返し、ロックを外して写真を開いた。 拡大された画面を見て、テーブルの人間は全員はっきり確認した。 指輪は確かに神崎詩織の手にある。 雫型のメインダイヤを、周囲のメレダイヤが取り巻いている。内側には白石家の特注ジュエリー特有の模様まで見えた。同じものは二つとない指輪だ。 白石夫人の顔が一気に青ざめた。 「こ、これは……もしかしたら、ちょっと借りて試しただけかもしれないわ」 私は彼女を見た。 「お義母さま、結婚式の日に花嫁は結婚指輪を受け取っていなくて、ブライズメイドが借りて試着したんですか?」 白石夫人は何も言い返せなかった。 神崎詩織が慌てて弁解する。 「お義母さま、あのときは舞台裏がすごく慌ただしかったんです。浩さんは酔っていて、司会の方からも進行を急かされていて……私はただ、指輪を一度預かっただけなんです。そのあと皆が囃し立てて写真を撮ることになって、それで少し着けてみただけで」 ようやく白石浩の視線が写真から彼女の顔に移った。 「少し試しただけで、Instagramに上げたのか?」 神崎詩織の表情が固まる。 「そのころは若かったし、指輪がきれいだったから、つい載せてしまったんです。はるさんに渡っていないなんて、知りませんでした」 「知らなかった?」 私はテーブルの上のリングを取り上げ、指先でくるりと回した。 「詩織さん、結婚式の翌日、あなたは私に写真を送ってきましたよね」 神崎詩織がはっとする。 私はスマホを開き直し、二年間ずっと残していたチャット履歴を表示した。 神崎詩織のアイコンは、彼女本人の写真。 当時送られてきた画像には、まさにその結婚指輪が写っていた。 背景はジュエリーボックス。 添えられていた言葉は一文だけ。 「はるさん、指輪は高価すぎるので、なくさないよう私が先に預かっておきますね」 あのころの私は、白石家に入ったばかりで、立場も足元も不安定だった。彼女と争うだけの強さもなかった。 返したのは一言だけ。 「お手数ですが、白石さんに渡してください」 神崎詩織から返事は来なかった。 白石浩はそのメッセージを見て、目に見えて顔を冷やした。 神崎詩織を見上げる。 「このメッセージ、どう説明する」 神崎詩織の目から、ついに涙が落ちた。 「本当に、他意はなかったんです。浩さんがはるさんに話していると思っていましたし、ただ高価なものがなくなったら困ると思って。あとで浩さんはお仕事でお忙しくなって、私も忘れてしまって……」 声を震わせながら泣く。肩も小さく揺れていた。 こういう泣き方は、本人を被害者に見せやすい。 案の定、白石夫人の表情が少し緩んだ。 「浩、あのころあなたは本当に忙しかったでしょう。詩織は小さいころからあなたと一緒に育った子よ。わざとそんなことをするはず――」 「母さん」 白石浩が遮った。 白石夫人は口をつぐむ。 白石浩の目は、まだあの写真から離れていなかった。 「結婚式の日、俺ははるに指輪を着けたのか?」 白石夫人は答えに詰まった。 「あの日はあなたもお酒を飲んでいて、司会の人が進行を終えたと言っていたのよ。そんな細かいことまで覚えているわけないでしょう」 「じゃあ、誰が覚えてる?」 彼は長テーブルの向こうの親族たちを見た。 さっきまで、場をわきまえろとか、分を知れとか言っていた人たちが、今はそろって黙り込んでいる。 真実が目の前に出てきてしまえば、もう誰も余計なことを言いたくないのだ。 白石浩の指先がテーブルに触れていた。 そしてふいに、私を見た。 「はる、まだ何か言っていないことはあるか」 少し考えてから、私は答えた。 「あります」 バッグから、あの小さなベルベットの袋を取り出す。 中に入っていたのは、当時のレシート。紙は少し古くなって、角もよれていた。 白石浩の眉がわずかに動く。 私はレシートを開いて見せた。 「結婚式の三日後、私は商店街でこの指輪を買いました」 日付ははっきり残っている。 金額、二千九百八十円。 支払方法、現金。 備考欄には店主の手書きで、こうあった。 「新婚のお嬢さんへ。どうか幸せに」 白石浩はそのレシートを手に取った。 「新婚のお嬢さんへ」の文字のところで、長いこと指が止まっていた。 私はさらにスマホの写真を何枚か見せた。 一昨年のチャリティー晩餐会。黒いドレスを着て、白石浩の隣に立つ私の手には、そのリングがある。 去年の祖父の賀寿の席。親族に一人ずつ挨拶する私の手にも、やはり同じリング。 今年の初めの神崎詩織帰国歓迎会。彼女は白石浩の右に、私は左に座っていて、乾杯のタイミングで撮られた写真には、私の手がはっきり映っていた。 三千円もしない指輪は、宝石だらけの中ではむしろ目立つ。 それでもこの二年間、誰ひとり目を留めなかった。 「今日になって初めて、この話を持ち出したわけじゃありません」 私は白石浩を見た。 「社長。今日は、あなたたちに聞かれたから答えただけです」 白石浩の喉仏が上下した。 白石夫人の顔色は最悪だった。 何か言いたそうにしながら、最後はただ神崎詩織をにらむだけだった。 神崎詩織はますます強く泣き出した。 「はるさん、どうしてもっと早く言ってくれなかったの? 早く言ってくれていたら、私はきっと指輪を返しました。こんなふうに急に持ち出されたら、みんな私を誤解するじゃないですか」 私はうなずいた。 「じゃあ今、返してください」 神崎詩織の泣き声が一瞬止まる。 テーブルの人たちの目が再び彼女に集まった。 私は手を差し出した。 「詩織さん、ただ預かっていただけなら。私は今ここにいます」 彼女の顔はどんどん青くなっていく。 「ゆ、指輪は……今日は持ってきていません」 白石浩の目が完全に冷え切った。 「どこにある」 神崎詩織はスマホを握りしめ、指先を白くした。 「私の家に」 「林」 白石浩が冷たく人を呼ぶ。 ずっと外に控えていた秘書がすぐに入ってきた。 「社長」 「神崎家に取りに行け」 神崎詩織が勢いよく顔を上げた。 「浩さん!」 白石浩は彼女を見なかった。 「今すぐだ」 林はうなずき、そのまま出ていく。 神崎詩織はあわてて立ち上がった。頬に涙をつけたまま、声まで変わっている。 「そんなに私を信じられないんですか? 二十年以上の付き合いでしょう。こんなに年長者がいる前で、人をうちへ行かせて物を取りに来させるなんて……たかがこんな誤解で?」 そこでようやく白石浩が彼女を見た。 「取りに行かせてるんじゃない」 少し間を置く。 「返させるんだ」 その一言を真正面から受けて、神崎詩織はゆっくり椅子に座り直した。 白石夫人もじっとしていられない。 「浩、今日は家に外の人もいるのよ。ここまで騒ぎを大きくしたら体裁が悪いわ」 白石浩はあの商店街のレシートを、自分のスーツの内ポケットにしまった。 紙が傷まないようにでもするみたいに、ひどくゆっくりした手つきで。 「もう十分、見苦しい」 そう言ってから私を見る。 「結婚式の映像は残っているか?」 私は少し笑った。 「それを私に聞くんですか、社長」 彼の目にわずかな硬さが走る。 私はスマホをしまった。 「結婚式の資料は全部、白石家にあります。私のアルバムは去年、お義母さまが場所を取るからと地下の収納にしまわせました」 白石浩は二秒ほど黙った。 「林」 スマホを取り出し、その場で電話をかける。 「結婚式当日の映像を全部出せ。ホテル、撮影チーム、舞台裏、式場内、すべてだ」 電話の向こうで何か言われたらしい。 白石浩の顔は、聞いているうちにますます冷たくなっていった。 最後に電話を切る。 白石夫人が思わず尋ねる。 「どうしたの?」 白石浩は目を上げ、長テーブル全体を見渡した。 「ホテルの元映像は残っている」 神崎詩織の手が、かすかに震えた。 白石浩が続ける。 「だが、指輪交換の前後十分だけ、誰かに切り取られている」その十分が切り取られていたとわかった瞬間から、白石家の本宅の空気は一変した。 さっきまでは、誤解だの、忙しかっただの、忘れていただのと言えたことが、もうそうでは済まなくなった。 神崎詩織はうつむいたまま、ティッシュを握り、ぽたぽたと涙を落としている。 白石夫人は隣に座って慰めようとしているが、どこか口を開きにくそうだった。 白石浩は窓際で電話をしていた。 皆に背を向け、声を極力抑えている。 「撮影チームの責任者は?」 「探せ」 「バックアップは?」 「ないなんて言わせるな。白石家の結婚式の映像なら、必ず二重保存しているはずだ」 数秒の沈黙のあと、声がさらに冷たくなる。 「人が見つからないなら、金がどこへ流れたかを調べろ」 電話を切ると、彼は振り返った。 私はちょうどバッグを持って出ていくところだった。 白石浩が足早にこちらへ来て、私の前に立ちはだかる。 「どこへ行く」 「新居に戻って荷物をまとめます」 「送る」 「結構です」 白石浩が眉を寄せる。 私は彼の横をすり抜けた。 彼は手を伸ばしかけたが、私の手首に触れる直前で止まった。 たぶんこの二年で初めて、彼は私に触れるにも一度止まる必要があると知ったのだ。 これまでは彼が眉ひとつ動かすだけで、私は自分から退いていた。 今日は退かなかった。 白石浩の手は空中で止まり、やがてゆっくり引っ込んだ。 「はる、少し時間をくれ」

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