Brian Morgan Facebook ad: “あの日、夫が手放した妻はもう戻りません”

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姉が怪我をしてから、記憶に障害が残った。多くのことを忘れたのに、私の夫・霧島晶のことだけは、ずっと自分の恋人だと思い込んでいる。 母は病院の廊下で泣きながら私にすがった。晶を姉に譲ってほしい、と。 晶も言った。「一時的なことだ。あいつが回復したら、全部元通りになる」 あの時点で、私にはわかっていた。元通りには、ならない。 …… 「遥、しばらく外に住んでくれ」 晶が部屋に入ってきて、ネクタイを緩める。こちらを見もしない。声も、いたって平静だ。 「彩香は刺激を受けちゃいけない。ここに引き取って世話をする。お前がいると、都合が悪い」 岡本彩香は、私の姉だ。 記憶に障害が出てから、大勢のことははっきり覚えているくせに、晶がとっくに自分の恋人ではなくなったことだけを忘れた。 コートを受け取る。いつもの香水に混じって、甘い香りが微かにした。 彩香の好きな香りだ。私のじゃない。 「もし、ずっと思い出せなかったら?」 コートを握りしめる。「そのまま演じ続けるの?」 晶の足が止まり、ようやく振り返った。ため息をつく。 「遥、彩香はお前の姉だ。今は状態が悪い。少しは思いやれ」 そう言って、ぽんと私の髪に触れた。駄々をこねる子供をあやすみたいに。 「荷物をまとめろ。多くは持っていくな。残りはこっちで処分させる」 リビングに歩いていって、片隅のガラスのスタンドライトを指差す。 「これも持っていけ。彩香はこういう趣味じゃない。長く使ったし、いい加減替えどきだ」 「今度、新しいのを買ってやる」 あのライトは、晶がくれた最初の誕生日プレゼントだった。 結婚五年、毎週磨いて、電球だって何度も替えた。 とっくに手放したかったらしい。 私はコートをソファに置いて、何も言わず、ライトを抱えて階を降り、資源ごみの集積所に放り込んだ。 戻ると、内装会社の担当者がもう来ていた。 晶の傍らで、相手はメモを飛ばしている。 「カーペットは替える。柔らかいやつに」 「寝具は肌触りのいい素材に。妻は肌が弱いんでね」 「それから——」 そこで言葉を切り、晶は書斎に入っていった。 私は扉の脇から、壁の付箋を一枚ずつ剥がしていくのを見ていた。 私が貼ったやつだ。私は彼の秘書で、彼の妻だ。 胃薬の時間、メールの返信、会議の前に氷入りのコーヒーを飲まないこと。黄色い付箋でいつも知らせていた。 今、それを一枚ずつ丸めて、屑籠に捨てていく。 顔を上げて私に気づくと、眉を寄せた。 「ちょうどいい。お前の付箋、全部剥がせ。一枚も残すな」 「姉さんはお前の字を知ってる。変に勘繰られたくない」 言い残して出ていった。 ほどなく、薄い色のソファが運び込まれた。作業員たちのひそひそ話が、よく聞こえた。 「ここの旦那さん、気前がいいね。工期を詰めるために三倍の料金を払ったんだって」 「カーテンレールまでやり替えるらしいよ。コースターも奥さんの好きなブランドに替えるとか」 「あと全室にアロマ。奥さんがバニラカルダモンの香りが好きなんだってさ」 バニラカルダモン。 彩香の大好きな香りだ。 私は玄関に立って、五年住んだ家が変わっていくのを眺めていた。 晶は暇がないんじゃない。 私に割く時間を、惜しんでるだけだ。 出ていこうとして書斎の前を通った時、引き出しが半開きなのに気づいた。灰青色の毛糸が覗いている。 足が止まった。 編みかけのマフラーだ。三年前のクリスマス、編み方を覚えて贈ろうとした。 いつの間にか見えなくなって、捨てられたと思っていた。 引き出しに手を伸ばす。 「遥」 後ろから晶の声。反射的に手を引っ込めた。 廊下の奥に立って、書類を手に、眉をひそめている。 「まだいたのか」 見つめるうち、初めてこの人が少し他人に見えた。 答えず、数枚の服しか入っていないバッグを提げて、かつて自分のものだった家を出た。 外に出てから、ずっと連絡を取っていなかった不動産仲介にLINEを送る。 「都心でマンションを探して。なるべく早く。夫には内緒で」とりあえず東京ステーションホテルに泊まった。 チェックインを済ませたところで、晶から電話だ。 「今夜、学生サークルの集まりがある。指導教授も来る」 仕事の段取りみたいな口ぶりだ。 「遅れて家に来い。お前と姉さんを連れていく。彩香は順調だ。少しずつ思い出してきてる」 言うだけ言って、切れた。 スマホを握ったまま、長いこと立っていた。 出ていく時、家はまだ改装の途中だった。 デザイナーに指示する晶の様子が頭から離れない。 あれだけ力を入れて、いったいどんな家にしたのか。自分の目で確かめたかった。 夕方、戻った。今度は、客として。 扉を開けたのは晶。彩香は二階で化粧中だ。 玄関に立って、五年暮らした場所だと思えなかった。 空気はバニラカルダモンの香りで、天井の照明も替わり、カーテンは彩香好みのピンクホワイト。 リビングの壁一面に、晶と彩香の慶應時代の写真が飾られていた。 サークルの集まり、三田祭、早慶戦。何枚も何枚も。 半日と経たないうちに、私の家は二人の過去の展示室になっていた。 視線に気づいて、晶が低く言い訳をする。 「医者が、慣れ親しんだものに多く触れさせると回復にいいと言ってる。この写真も治療の一環だ」 受け答えはしなかった。 ここまで来れば、誰を愛していて誰を愛していないかくらい、見えている。言い訳に意味はない。 化粧を終えた彩香が降りてきて、ごく自然に晶の腕に絡みつき、私に笑いかけた。 「遥、晶ったら遥も行くんだって? 何年経っても相変わらずね、いつも私たちについてくるんだから」 目を伏せて、黙っていた。 晶が彩香の手をそっと叩く。優しい声だ。 「やめろ。お前の妹はもともとおとなしいんだ。そういう言い方をするな」 言ってから、手を引いて出ていく。振り返りもしない。 バッグを握りしめて、後を追った。 着いたのは慶應大学の日吉キャンパス。 晶は彩香を連れて銀杏並木を歩く。彩香を見る目の柔らかさは、見たことがないものだった。 「彩香、覚えてるか」 「一年の時の早慶戦、応援リーダーの俺たちがこっそり手を繋いで、学内の掲示板に写真を流されたやつ」 彩香は頬を染めて、晶を睨んだ。 「覚えてるに決まってるでしょ。そんなの、忘れるわけないじゃない」 今度は遠くの記念館を指す。 「あと三田祭、一緒に作ったステージ。遥もいたよね?」 二人同時にこちらを見る。 晶は眉を寄せた。私と関わる場面が、なかなか思い出せないらしい。 口元をひきつらせる。 「いた。客席で見てた」 ステージで輝くのは、いつだって二人だった。 私は客席に座るだけの人間だ。 後に晶と結婚してからも、変わらなかった。いつも二人の物語の傍観者。 尽くして、譲って、ここまで来て、ついに自分の結婚まで譲り渡した。 そのことに、ようやく気がついた。 その後も晶は彩香を連れて図書館や旧寮を回り、かつて一緒に行った場所をすべて歩いた。 治療というより、二人の追想旅行に見えた。 私はずっと後ろをついていった。大学時代と、何も変わらない。 晶に電話が入るまでは。他の同級生がもう、日吉近くの店に着いているらしい。 三人で個室に入るなり、やじが飛んだ。 「来た来た、スターカップルご登場! まだ手繋いでんのか? 何年付き合ってんだよ? 案内状はまだか?」 彩香が赤くなって、晶を見る。 晶の表情が強張った。口を開きかけた時、上座の教授が先に訊いた。 「待ちたまえ。たしか霧島くんは結婚していたはずでは」 晶がすぐこちらを見た。目が沈む。 見ないふりをして、適当な席に座った。 晶と私の結婚は、区役所に婚姻届を出しただけだ。式もなし、公表もなし。 知っている人間はほとんどいない。 それなのに同級生たちは勘違いして、ますます騒いだ。 「もう済ませてたのか? ひどいぜ、案内状もなしとは」 晶はグラスを取って、淡々と言った。 「教授の記憶違いだ。俺はまだ結婚していない」 彩香が寄り添って、甘く笑う。 「でも、もうすぐよ」 肯定も否定もしない。ただ彩香を見て、口元を緩めている。 五年連れ添った私には、その顔がよくわかる。 今、この人は本当に楽しそうだ。 手の中のグラスが冷たい。俯いて、一口飲んだ。 苦かった。 何巡かして、隣のサークル仲間が肘をつついてきた。 「遥さん、今付き合ってる人いる? 大学ん時から誘いたかったんだよね」 コップを握りしめる。 晶の視線を感じる。 顔を上げ、その目と合わせて、笑った。 「います」 ゆっくり、言った。 「結婚して、五年になります」 晶の顔から血の気が引いた。彩香の笑顔が凍りつく。 その瞬間、予感がした。 これから先、平穏ではいられない、と。個室が数秒、静まり返った。 例のサークル仲間は気まずそうに手を引っ込めた。 「結婚してたの? 誰と?」 私が答える前に、晶が小さく咳払いした。 グラスを取って、淀みなく言う。「旦那は俺の会社のエンジニアだ。今日は残業だろう」 嘘をつく時、この人は目すら変えない。 相手は頷いて、蔑みを滲ませた。 「そっか。悪いね、遥さん。遥さんとお姉さんとじゃ、そもそも世界が違うもんね」 晶は受けずに、ウイスキーを飲み干した。 コップを置く。底がテーブルに触れて、かすかな音を立てた。 平凡な人間は平凡に生きるべきだ、と。 だから......
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あの日、夫が手放した妻はもう戻りません
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